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徐 梓淳

​XU ZICHUN

1997 中国雲南省生まれ

2015 広⻄芸術学院入学

2019 広⻄芸術学院美術研究科油画専攻第一研究室卒業

2022 多摩美術大学大学院美術研究科油画専攻入学

2024 3月多摩美術大学大学院美術研究科油画専攻卒

 

BIOGRAPHY
2022「KENZAN」東京芸術劇場
2023「KENZAN」東京芸術劇場
2024「Panta Rheiー記憶・認識・移ろう官界」MJK Gallery(東京)
   「Dear Poem」Alpha Contemporary(東京)

 
受賞歴
2022 東京芸術劇場kenzan2022入選
2023 神奈川県美術展入選
2023 東京芸術劇場kenzan2023入選
2024 sompo美術館FACE2024入選

 ♮(ナチュラル):このシリーズの作品は、[山]という記憶を原型にして制作された。私は中国の雲南省出身であり、雲南省は中国大陸の腹地に位置する山々に囲まれた内陸地域である。自分自身が世界の最初の記憶について語り始めるとき、山という物象が自然に現れた。したがって、[山]は私にとって記憶の原型とも言える。なぜ私はこの記憶の原型を考え、探求する必要があると考えたのか、理由は、自分の原型の記憶を作品に投影し、自己を繰り返し再認識し、自己と世界との関係、そしてその行為を通じて生み出された作品が再び見る自分にどのような効果をもたらすかを理解したかったから。私は非常に強い好奇心を抱いており、なぜか自己の最も深い層を見ることが非常に重要な課題だと常に考えている。私は方法論を見つけるか、結果を生み出さなければならないと思う。そうでなければ、今後の人生で自分にとって探求し続けるものを見つけることはできないであろう。そのような人生は私にとって意味がないと確信している。そして、この考えに関する研究と制作を始めた。このシリーズの最初の作品を始めると、実は私は非常に混乱し、困惑した。なぜなら、私が中国で受けた美術教育はずっと現実の既存の物体の造形的な再現と、技法が伝統に従っているかどうかに焦点を当てている。これは現在の私にとって明らかに捨てる必要のある部分である。未経験の領域で新しい一歩を踏み出すことは非常に不安だった。この不安に対抗する中で、最初の抽象的な風景作品が誕生した。この作品では、私は右から左に向かって[山]という対象を描いた。画面は細部の物体の質感の描写から次第に抽出され、私と[山]との関係は外部の観察から内部の心象に変化していった。そして、これを単独で抽出し、私自身に属すると考える独自の絵画言語を得ることに決めた。

 ♮(ナチュラル) 「natural」が英語の中の意味は:自然の生まれつきということである。「natural」の語源は、ラテン語で出生、本来の性質を意味する「natura」である。⻄洋音楽の五線譜での[♮]の記号は、本位記号(ほんいきごう)とも呼ばれ、⻄洋音楽の五線記譜法による楽譜に用いられる変化記号「♮」のこと。シャープやフラットの機能を解除する意味を持つ。この記号の意味は、私が「ナチュラル(natural)シリーズ」で表現したい内容と共鳴した。よって、私はこの音楽記号を絵画芸術と結びつけ、このシリーズのテーマとして使用することにした。童年時、父親との旅行中の一体験が、このシリーズの基本形を築く契機となった。父親と一緒に一日中かけて山を越える経験を振り返り、夕陽の光が山のシルエットだけを浮かび上がらせる時、その時の私は過去の時間が具現化されているように感じた。山は一日の時間を包み込んで徐々に私から遠ざかっていく中、その遠ざかる姿を見つめると、まるでそれが本当に過去の私を包み込んでいるかのよう。このような経験により、当時の私は言葉にできないほどの真実感に触れているような気持ちになった。この真実感は、より高い次元から来るもので、時間の実体が見える次元のようなものだった。この体験は私が平面の絵画作品を初めて見た時にも起こった。⻄洋でも東洋でも、絵画の主題物よりも背景や遠景に引かれることが多かったのである。私は絵の背景に描かれた山や川をずっと見つめ、自分の意識が完全に絵の空間に入り込み、絵の主体物や近くの物体が現在を象徴していると同時に、遠くの山や風景が未来や次に行くべき場所を象徴していると感じ始めた。この象徴は、おそらく私が空間と時間に対する想像から来ている。時間、記憶、空間という三つの要素は、意識に依存して存在し、これらの抽象的な要素を手がかりにして、自分の存在と世界とのつながりを見つけたいと思っている。同時に、これらの三つの要素が、私自身の過去、現在、未来の存在を確認するための尺度のように機能することも望んでいた。これが、「ナチュラル(natural)」シリーズが制作される前の基盤かもしれない。前述の記号:[♮]が作品の表現と共鳴する理由について、次の文で論じる。[山]という形態を抽象化し、新しい制作に取り入れた後、作品はほぼ自然な形で完成した。画面の構成デザインは、できるだけ直感に任せた。しかし、このシリーズではほぼすべての絵に「水平線」が画面全体に貫通しているという非常に偶然な事実がある。この水平線が私にとって象徴するもの、およびなぜ私がほぼ当然のようにこの要素を使用して[山]の無限の延⻑を終結させたのかについて、前述のように[山]の記憶、経験の一部であると共に、愉快な高揚感も抑うつ的な低迷感も含む一定の期間の生活体験を象徴している。これらの経験が時間の経過とともに新しい記憶と感覚に押しやられ、現在の私からはますます遠く小さくなり、遠い未来に通じるすべての過去の記憶と感覚を含む地平線を構成する。今の私はどんな感情や思い出があっても、感知できる時間の果てには、それらが静寂の水平線に戻ることになる。このような考えは、私を人生の虚無感と意味のなさに陥れることなく、一種の現実だけど抗いがたい宿命感に包まれることになった。同時に、私自身に完全かつ私自身の創作体系を手に入れたことで、喜びを感じている。私が音符の知識についての読書を行った際、[♮](ナチュラル)という記号の意味を理解し、それが私に何らかの共鳴を感じさせ、他の知識や概念要素を絵画芸術に取り入れることに興味を抱いている。

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